椿京の郊外、山の中腹にひっそりと佇む廃寺――。
かつては多くの参拝者で賑わっただろうその寺も、今では朽ちた柱と苔むした石段だけが、往時の面影を留めていた。本堂の屋根は所々が崩れ落ち、月光が境内を斑に照らしている。
ここが、朧月会の隠れ家の一つだった。
鈴凪は本堂の奥、畳の上に横たえられていた。封印術の影響で意識を失っていた彼女の頬に、蝋燭の炎がゆらゆらと影を落としている。その手には、銀の鈴がしっかりと握られていた。
術者たちが彼女を囲むように座り、慎吾はその中央で膝をついていた。その表情には、使命を果たした満足感と、なぜか拭えない複雑な想いが混在している。
「よくやってくれた」
朧月会の長老格である術者が、慎吾の肩に手を置いた。白髪の老人で、深い皺に刻まれた顔には、長年妖と戦ってきた者の厳しさが宿っている。
「これで、あの忌まわしい狐の手から、この娘を救うことができる」
「はい……」
慎吾の返事は、どこかぎこちなかった。理玖の涙を流す姿が、まだ心に引っかかっている。
「慎吾よ、どうした? 浮かない顔をしているが」
長老の問いかけに、慎吾は慌てて首を振った。
「いえ、何でもありません。ただ……」
「ただ?」
「あの狐は、本当に鈴凪さんを騙していたのでしょうか」
慎吾の言葉に、周囲の術者たちがざわめいた。長老は眉をひそめる。
「何を言っているのだ。妖が人間を愛するなど、そんなことがあるはずがない。あれらの行動は全て、人間を食らうための偽りの感情だ」
「でも、あの狐は泣いていました。まるで、本当に鈴凪さ
椿京の郊外、山の中腹にひっそりと佇む廃寺――。 かつては多くの参拝者で賑わっただろうその寺も、今では朽ちた柱と苔むした石段だけが、往時の面影を留めていた。本堂の屋根は所々が崩れ落ち、月光が境内を斑に照らしている。 ここが、朧月会の隠れ家の一つだった。 鈴凪は本堂の奥、畳の上に横たえられていた。封印術の影響で意識を失っていた彼女の頬に、蝋燭の炎がゆらゆらと影を落としている。その手には、銀の鈴がしっかりと握られていた。 術者たちが彼女を囲むように座り、慎吾はその中央で膝をついていた。その表情には、使命を果たした満足感と、なぜか拭えない複雑な想いが混在している。「よくやってくれた」 朧月会の長老格である術者が、慎吾の肩に手を置いた。白髪の老人で、深い皺に刻まれた顔には、長年妖と戦ってきた者の厳しさが宿っている。「これで、あの忌まわしい狐の手から、この娘を救うことができる」「はい……」 慎吾の返事は、どこかぎこちなかった。理玖の涙を流す姿が、まだ心に引っかかっている。「慎吾よ、どうした? 浮かない顔をしているが」 長老の問いかけに、慎吾は慌てて首を振った。「いえ、何でもありません。ただ……」「ただ?」「あの狐は、本当に鈴凪さんを騙していたのでしょうか」 慎吾の言葉に、周囲の術者たちがざわめいた。長老は眉をひそめる。「何を言っているのだ。妖が人間を愛するなど、そんなことがあるはずがない。あれらの行動は全て、人間を食らうための偽りの感情だ」「でも、あの狐は泣いていました。まるで、本当に鈴凪さ
私は奥の間で、膝を抱えて座っていた。 襖の向こうから聞こえてくる戦いの音に、私の心は千々に乱れている。理玖の声、慎吾の叫び声、術が激突する音、そして――華や眷属たちの苦悶の声。「理玖様……」 私の手の中で、銀の鈴が微かに震えていた。不安と恐怖に呼応するかのように、鈴は小さく鳴り続けている。 リン、リン、リン――。 その音色は、いつもの澄んだ響きとは違っていた。まるで泣き声のような、切ない音を奏でている。この奥の間……襖のすぐ向こうでも傷つけられた狐たちの鳴き声が響いている。「私のせいで……私がここにいるせいで、みんなが……」 私の目に涙が滲む。理玖が傷つく声が聞こえるたび、私の胸は締め付けられた。慎吾の怒りに満ちた声が響くたび、罪悪感が心を蝕んでいく。 その時、襖が勢いよく開かれた。「鈴凪さん!」 現れたのは、朧月会の術者の一人だった。以前、古書店で会った椋本だ。息を切らせながら、椋本は私を見つめる。その瞳には、安堵と共に義務感が宿っていた。「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」 私は立ち上がり、椋本から距離を取った。「あなたは……朧月会の方ですね」「ええ、そうです。慎吾さんに頼まれて、あなたを救出に来ました」 椋本が手を差し伸べる。「さあ、一緒に来てください。ここは危険です。あの化け物から、あなたを守らなければ」「化け物……?」
理玖が屋根から庭へと舞い降りた瞬間、夜気が一変した。 彼の足が地面に触れると同時に、封印していた妖力の一部が解放される。空気が震え、庭の木々がざわめき、月すらもその光を翳らせたかのようだった。「これが……狐の妖の力……」 術者の一人が呟く。理玖の周囲に立ち上る蒼い炎のような妖気を見て、朧月会の面々は思わず身を寄せ合った。しかし、彼らの手には封印の術具が握られている。「怯むな! 所詮は化け物だ! 僕たちには、代々受け継がれた封印術がある!」 慎吾が叫び、術者たちを鼓舞する。彼の声に応えるように、術者たちが一斉に札を取り出した。それらの札には、妖を縛る強力な術式が刻まれている。「封印術・金縛りの鎖!」 詠唱と共に、光の鎖が理玖に向かって伸びる。しかし、理玖は表情を変えることなく、片手を軽く振った。蒼い炎が鎖を包み込み、あっという間に術式を焼き尽くす。「そんな……嘘だろう……」 術者の一人が青ざめる。朧月会の封印術は、これまで数多の妖を封じてきた実績がある。それが、こうも簡単に破られるとは。 理玖は静かに歩を進めた。その一歩一歩が、地面に蒼い炎の足跡を残していく。「貴様らが私に何をしようと構わん。だが――」 理玖の瞳が、金色に燃え上がる。「私の家族に害をなそうとするなら、容赦はしない」「家族だって? ふざけるな!」 慎吾が短刀を構えながら前に出る。「鈴凪さんは人間だ! おまえのような化け物の家族なんかじゃない! おまえ
夜闇が椿京を包み込んだその時、朝霞邸を守る結界に最初の亀裂が走った。 空気が震え、庭に咲く椿の花弁が一斉に舞い散る。華は中庭で空を見上げると、長い袖を翻しながら縁側へと足を向けた。華の瞳に宿る紅い光は、迫り来る危険を敏感に察知していた。「奥様を奥の間へ! 急いで!」 華の声が、屋敷に潜む眷属たちに響く。猫又や狸、狐たちが影のように動き、中庭の鈴凪を迎え入れ、奥の間の廊下を走っていた。しかし、彼らが奥の間の襖を開く前に、結界の破砕音が夜気を裂いた。 ばきり、と。まるでガラスが砕けるような音と共に、朝霞邸を包んでいた不可視の守りが崩れ落ちる。「来たか」 理玖の声が、書斎から低く響いた。彼は窓辺に立ち、夜闇に潜む影たちを見つめている。月明かりが彼の琥珀色の瞳を照らし出すと、そこには静かな怒りが宿っていた。 庭の向こうから、足音が近づいてくる。一人、二人、三人——いや、もっとだ。朧月会の術者たちが、息を殺してこの屋敷を包囲していた。 先頭に立つのは、慎吾だった。 慎吾の手には、月光を反射する短刀が握られている。その刃には封印の術式が刻まれており、妖を縛る力を宿していた。慎吾の瞳は決意に燃えているが、その奥には迷いのような影もちらついている。「鈴凪さん……必ず、あの化け物の手から救い出してみせる」 慎吾の呟きが夜風に混じる。彼の後に続く朧月会の術者たちも、それぞれに武器や術具を手にしていた。彼らの顔は皆、正義感に満ちている。自分たちが正しいことをしているのだと、疑いもしていなかった。 華が門前に姿を現したとき、慎吾は一歩前に出た。「玉依華! 鈴凪さんをどこに隠した!」 慎吾の声が夜空に響く。華は袖で口元を隠しながら、静かに微笑んだ。その笑みには、どこか哀れみのような色
黄昏が椿京の街を包み始めた頃――。 朝霞邸の庭で、私は一人佇んでいた。手には銀の鈴を握りしめていた。「理玖様……」 私は空を見上げた。夕日が雲間から差し込み、庭の木々を赤く染めている。美しい夕景のはずなのに、今の私には物悲しく映った。 朝の出来事かた、理玖は私を避けるようになっていた。食事の時間をずらし、私が近づこうとすると用事を作って立ち去る。まるで私の存在が、理玖にとって重荷であるかのように。 朧月会が私を狙っているようだと華が言っていた。そんな私がいることで――。「私、きっと……ご迷惑をおかけしているのね……」 それに――明け方の理玖の態度や目を見て……言葉の端々を……聞いて、気づいてしまった。 理玖は今でも百合を忘れられずにいるのだと。きっとこの先も、忘れることなどできないのだろう。何かの折に、私に百合を重ねて思い出し、苦しんでいる。そんな時、私はどうしたらいいのだろうか。そばにいることで、苦しめてしまうのなら、私は……。 チリン――。 鈴がまたその音を小さく響かせる。 銀の鈴を見つめながら、私はため息を漏らした。この鈴が鳴った時に見た、理玖の驚いた顔を思い出す。この鈴の音に、何かあるのだろうか。 その時――。 庭の向こうから、華が急ぎ足で現れた。いつもの落ち着いた彼女にしては珍しく、焦ったような表情を浮かべている。「奥様!」「華さん? どうされたんですか、そんなに慌てて」 私は華に駆け寄った。
いつの間にか、雨が止んでいた。 理玖は顔を上げ、窓の向こうに広がる薄紫の空を見つめた。いつの間にか夜が白み始めている。古い書物の頁を捲る音だけが、静寂の中に響いていた。 百合の記憶は、まるで古い傷のように疼いている。百年という歳月を経てもなお、彼女の面影は理玖の心に深く刻まれていた。記憶を封じたはずなのに――なぜ今になって、これほど鮮明に蘇るのか。「理玖様?」 扉の向こうから、遠慮がちな声が聞こえた。理玖の肩がわずかに強張る。「入れ」 短く答えると、障子がそっと開かれた。鈴凪が寝間着姿のまま、心配そうな表情で書斎を覗き込んでいる。髪は寝癖でわずかに乱れ、素足が畳の冷たさに小さく震えていた。「お休みになられていないのですね」 鈴凪は心配そうに問いかけながら、静かに歩み寄った。「何か、悪い夢でも?」 理玖は答えない。ただ、鈴凪の存在を意識するだけで、胸の奥に複雑な感情が渦巻いているのを感じていた。 鈴凪の仕草、声の調子、気遣うような眼差し――それらすべてが、百合の記憶を呼び起こす。同じように、百合も理玖を案じて深夜の書斎を訪れることがあった。同じように、理玖の心の内を察しようとしてくれた。「理玖様、顔色が悪いです」 鈴凪は理玖の前に立ち、心配そうに顔を覗き込んだ。「何かあったのですか?」 理玖は鈴凪から視線を逸らした。近づかれるほど、百合との重なりが増していく。同じ人間の匂い、同じ温もり――しかし、百合はもういない。目の前にいるのは鈴凪だ。別の人間だ。 それなのに、なぜこれほど心が乱されるのか。「……あなたに、